2011年4月27日、
お嬢様から電話で飯野先生が入院先の病院で他界された事を
知らせて頂きました。
2010年に先生は奥様を亡くされ、まさに後を追うように逝かれてしまいました。
私は1980年4月に卒業研究で数理物理研究室(当時、飯野・堤研)に入り、
先生に学位の審査委員になっていただいた最後の学生です。
1980年夏から2年間、堤先生が渡米されていた間、飯野先生に面倒を見ていただきました。
当時、先生は「我々の研究方法は、ゲリラ戦法だ」とおっしゃってました。
その頃は非線形偏微分方程式の研究は端緒についたばかりで、
新しくて面白そうなことに何でも取り組んでいた時期です。
選んでいただいたテキストも変分不等式という新鮮な話題でした。
他の学生も、非拡大写像や不定符号内積空間、トーマス・フェルミ・モデル等、方向を一つに
決めずに各自が取り組んでいました。
ゼミは、先生が生協で買った煎餅を食べながらの寛いだものでしたが、
時には、「大定理に頼らず、自分で作るんだよ」と叱咤激励されることもありました。
私が研究室に入った頃、先生は禁煙をしておられました。
しかし、その時の研究室の学生は私を含め多くが喫煙者でした。
我々鈍感な学生は、先生の前でも堂々と喫煙していましたが、
一切苦情を言われませんでした。
逆に「タバコを吸わないから、風邪をひきやすくなったよ」などと
言って和ませてくれました。今思い返しても汗顔ものです。
一回り上の先輩方からは、厳しい先生だったと伺っていますが、その頃には
随分優しい先生になられたようです。
実際、私は叱られた記憶もなく、思い出といえば、
学生の手料理による、先生の誕生日会を研究室で開いたことや、
卒業生にも声をかけて還暦記念ボーリング大会を開催したことなど、
数学とは関係ない楽しいことばかりです。
物理・応用物理学科での先生の数学の講義は、同学年の数学科の講義に比べても
高度で、極めて早いペースでした。それが刺激になり、毎年何人かは数学に
魅せられて数理物理研究室を卒研に選ぶことになります。
飯野先生が在職中に数理物理研究室を経て、
数学研究者になった方は、
堤正義(早大基幹理工)、岡沢登(東京理科大理)、石井仁司(早大教育)、大谷光春(早大先進理工)、
林仲夫(大阪大理)、堤誉志雄(京都大理)、小澤徹(早大先進理工)、
名和範人(大阪大基礎工)、小川卓克(東北大理)等々、
20名にも達します。
中には、その分野で世界をリードする研究者が何人もいます。
嬉しいことに、「ゲリラ戦法」の精神は脈々と受け継がれています。
数学科以外で、このような高いレベルの数学研究者を輩出し続けている
研究室は世界でも類がありません。
先生は、落語や歌舞伎にも造詣が深く、六代目三遊亭圓生がご贔屓でした。
昔の名人たちの思い出を楽しそうに語る先生の江戸前の口調が蘇ってきます。
また、小気味よい社会批評や、「品性下劣」と一刀両断される人間観察も
清々しいものでした。
先生には露語の訳書や仏語の論文がありますが、研究室にあったボードレール詩集の
訳書には「駄訳」と書き込まれていました。
幅広い教養を持った学者らしい先生でした。
私にとって忘れられないのは、
院生の頃の将来の不安に対する親身なご指導です。
そのおかげで、何とか研究を続けてこられたと思います。
心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。