田﨑秀一さんを偲んで (取りとめも無い文章です。)


 早稲田大学の物理学科の同級生として、思い出話を少しさせて頂きます。

 訃報を受けてから、彼を思い出すことが多いのですが、特にドラマチックな事があったわけでもないのに、私にとっては特別な存在でした。今でも、教室の最前列のはじに、足を組んで机を抱えるようにノートを取っていた姿や、時々キラキラ光る眼を思い出します。

 同級生である我々はすぐに、彼が優秀だと気づきました。私や奥様の博子さんを含め多くの同級生が、講義でわからなかったことや、レポートや演習で解けない問題を彼に質問しました。彼は、質問に答える事を嫌がらずに、丁寧に時間をかけて答えてくれました。人に分かるように説明する事がとても上手でした。物理の講義がもやもやして分からなくなっていた私にも、何が仮定で何が実験事実かを明確にして、明瞭に説明してくれました。東京の 秀才しか見たことがなかった私には、受験などに煩わされないで、ただ考えることが好きな人間を見た初めての経験でした。何かの講義で、正確には覚えてませんが、「自分自身の物理観」といった大きな題名のレポートが出た事があります。彼の提出したものを見て驚きました。多分、大学入学前から書き溜めた分厚いノートをそのまま提出していたのです。 まだ「研究」には遠い距離があったかもしれませんが、「学問する」とはどういう事かを私は彼から習ったと思ってます。

 学部の頃から、彼は物理だけでなく数学もずば抜けていました。彼とは、いくつか自主ゼミで数学をやっていました。しかし、たいてい私がドロップアウトして長続きはしませんでした。早稲田の物理・応物出身の方はご存じでしょうが、1年生の頃から、数学科の2年生以上で習う数学の内容を講義で習います。今でもその伝統は続いているようです。当然、レポートなど私を含め殆どの学生がお手上げでした。後年、もう一人の数学者になった同級生が、演習問題の 答を作ってくれました。田崎さんはその模範解答をチラッと見て、「こことここが間違ってる」と指摘しました。「これは、かなわない」という思いがしたものです。

 2年生の熱力学で私はとうとう物理からドロップアウトして、数学に転向することを決めました。幸い、数物研で数学をやっていたので、そこに行こうと決めました。彼も、将来は物性理論を専門にすると決めていましたが、卒業研究は数物研も考えていたようです。それを知って、「お前は、物理も得意なのだから、物理の研究室に行ってくれ。人数制限で私が数物研にいけなかったら、私がいける研究室がない。それに同じ研究室だと俺が目立たなくなる。」と勝手な事を言った事があります。そのせいでもないでしょうが、ご存じのように彼は素粒子の研究室に行きました。卒研では、数物研には博子さんの友人の白さんという女性がいたせいもあって、二人とも時々数物研に顔を出してくれました。当時あそこは学生も少なく広いお茶のスペースがあったせいかもしれません。

 卒業式の日も思い出します。 もちろん、同級生の間では彼と博子さんの間柄は周知の事でしたが、彼は京都大学の院に決まっていたので、どうなるのだろうと思っていました。その日も、数物研にきて2人で別れを惜しんでいました。卒業式の後、当時、お酒を飲む習慣があまり無かったので、田﨑さんや博子さんも含めて何人かと喫茶店で長くいました。

 彼が、京都に行ってから、お互い院生の頃、研究集会で京都に行った時は、彼に会っていました。一度、夜桜見物と称して、寺や神社に夜忍びこんで、桜を見て歩いたのを覚えています。彼は夜桜の穴場を知っていて、「こういう趣味もあったのか」と驚いたものです。夜に白く浮かんだ桜が印象的でした。あれはどこの桜だったのでしょう。

 そのうち、「電話代があまりにかさむので、一緒になることにした」と連絡がありまた。それからは、仲が良いというのを越えて、一心同体という二人だったように見えました。彼がベルギーにいた頃も、ベルギーから京都の研究所に帰国した時も、彼らを訪ねて行きました。いつも、博子さんと一緒でした。

 学部は一緒でしたが、私は分野を変えたせいで、彼の研究がどう評価されているかは分かりませんでした。しかし、時々、物理の友人や、その後知り合った複雑系や数理物理の方々が一様に「彼はできる」と言っていたので、研究者としても順調にいってるようだと安心し、また誇らしくも感じていました。

 彼が早稲田に戻ってきてから、埼玉大学の数学科で彼に講演をしてもらいました。また、私が早稲田で講演する時は聴きに来てくれました。ある日、早稲田の理工から駅まで送ってくれる道すがら、「何か一緒にできるといいね」と言ってくれましたが、それもかなわなくなりました。

 現在、数学のテキストシリーズを編集していて、物理っぽいものもいれるという趣向です。 四人の編集者のうち、数理物理担当が田﨑さんをよく知ってる方で、ぜひ彼にも執筆してもらおうと話していましたが、その頃は、最初の闘病中でした。研究で一緒に何かするのは難しかったかもしれませんが、教育では何かできたかもしれません。彼は、数学者が物理のどこで躓くかを分かっていたので、物理と数学をつなぐ架け橋になれると思っていました。残念でなりません。

 その後、彼が復職した時、2年ほど前、私が友人の講演を聞きに理工学部に行った時、講演 会場が分からず、うろうろしていました。夕方6時くらいです。理工学部の廊下でばったり、彼と会いました。「これから演習がある」という事でした。「TAがいるからいいよ」と、 一緒に探してくれました。その時は、病気もすっかり回復したように見え、二人で学内を速足で歩きまわりました。結局、数学科の事務室(51号館17階?)まで行って会場を見つけました。この講演会は、会場を直前に変えたため、会場が見つからず、諦めて帰った方もいました。 これが、彼と会った最後でした。幾つかの偶然が無ければ会えなかったところです。

 ご存じのように彼はいつも冷静で、あまり不平不満を言いません。一度だけ私に強い口調で怒ったことがあります。まだ、病気の前です。早稲田で私が講演する際は、彼に伝える事になっていたのですが、一度忘れてしまった事があります。その後、「早稲田に来たら知らせてくれなくてはいけない」と強い口調で言われました。まさか、こんな早い別れを予感しての事ではなかったでしょうが、結果的に彼との楽しい会話を一回分失った事が今でも残念です。